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日本語の数詞に潜む謎
作者:未知  文章来源:互联网  点击数  更新时间:2008-07-05 15:25:18  文章录入:admin  责任编辑:admin

 愚考だが、ときおり考えては解けない日本語の数詞に潜む謎について少し書いてみ
ようという気になったので書く。誰かこれを見て、謎が解けたら教えてほしいものだ
、とも率直に思う。
 日本語の起源は喧しく議論されているが、要領を得ない。大野晋など岩波などにお
だてられて快進撃を続けている。白川静といい、こうした「と」な老人をなんとかし
ろよと思うが、ほっとけか。
 日本語は、比較言語学的には朝鮮語との対応がある程度システマティックに見られ
る。文法構造に至っては日本語と朝鮮語はほぼ同じだ。というあたりまではわかる。
また、スワディッシュの法螺話を応用して、日本語と琉球語の分裂年代という議論も
ある。これは端的に間違いなのだが、日本史学と同様国語学は手がつけられない。ほ
っとけである。
 とりあえず、文法構造的には朝鮮語と同型で、それに音韻の構造からみてポリネシ
ア系の単語が加わったのが日本語になるということは言える。ここでいつも思うのだ
が、ここから導かれる結論はたった一つしかない。日本語は人工言語だということだ

 現代インドネシア語を少しでも知っている人ならわかってもらえると思うが、イン
ドネシア語はマレー系の現地語の単語を英語の文法構造に押し込んでできた人工言語
だ。分化したコミュニティを国家的に言語統一するとなると、支配者の知的な層の言
語構造に民族アイデンティティを示す語を押し込むことになるのは必定だ。そんな簡
単なこともわからないで日本語の起源とか議論している学者が多いのには呆れる。い
ずれにせよ、文法構造のほうは疑問の余地がないのだが、問題は単語の起源のほうだ
。いったい日本語の単語はどこから来たのか?というのが仮の日本語起源の問題にな
る。
 スワディッシュの理論はふざけたしろものというか、閉鎖モデルでしかないので日
本語には原理的に適用できないのだが、それでも、比較言語理論の基礎として基本語
彙というのが設定されている。結論から言うと、私はこの基本語彙というのが間違い
のもとだと思う。
 基本語彙にはいくつか特徴があるが、身体語と数詞というのがある。もともと比較
言語学は西欧語の起源論から出来たもので、あいつらの言語の場合、特に数詞はわか
りやすい。もともと算術に弱いのだ、あいつらはね。だが、日本人の祖先たちは、縄
文時代から海洋交易が盛んなので、数詞は山羊を数えるといったものではなく、即マ
ーケットニーズに結びつく。だから、本質的にポリネシアや沿岸地域のリンガフラン
カはマーケット性の人工言語という相貌になる。このあたりの説明はどうも話を端折
りすぎて難しいかもしれないのだが。
 つまり、数詞について、言語起源論的に基本語彙に持って行くのは間違いだと私は
言いたい。逆にこの日本語の数詞というのは、古代のどのようなマーケットを反映し
ているのか気になる。というのは、私の直感にすぎないのだが、日本語の数詞という
は言語アバカスだと思うのである。言語アバカスというのは私の造語だ。算術用言語
ということだ。もう少し直感をくだいてみせよう。ある程度話は雑駁になる。
 日本語の1つは、pitotuである。2つはputatuである。tuは個数につく添え語のよ
うなものだ。語幹をpitoとするか、ひーふーみーよーというようにpiで切ってtoを構
成語にするかはよくわからない。仮に1をpiとするとこの倍がpuである。同じ構造が
3と6にある。3がmiであり6がmuだ。これだけなら偶然かもしれないが、4がyoで
8がyaだ。こういう構造がある。

1系   pi  pu
3系   mi  mu
4系   yo  ya

 yoとyaは構造的には、yiとyuになればきちんと整合するが、この流音yは口蓋に近い
母音と分化しにくいので、あとに両唇に近い母音で分化されたのかもしれない。

   yi+a→yia→yoa→yo
   yu+a→yua→ya

 この変化はこじつけ過ぎるかもしれない。
 5と10では、itutuとtoで一見すると構造が見られない。だが、itutuのtuは個数
の添え語とするとituで、iの前のなにかがドロップしたとすると、構造は予感される

5系   xi  to

 xはt音かもしれない。
 さらに、100がmomo、1000がti、1000がyoroduということで、3系のm、5系のt、4
系のyが繰り返される。子音が少ないとするには構造性が感じられる。倍数から残され
た7と9はnanaとkokoというようにそれなりの類似性がある。
 以上の考察のままでは、ほとんと「と」だ。そんなことを主張したいわけではない
。わかるのは完全な構造の解明ではないにせよ、倍数の計算原理がこの数詞に潜んで
いることは間違いないということだ。
 だから、その倍数構造がどのような算術に活かされていたのかと問いを出してみた
いのだ。
 この先はやや「と」が入るが、古代の浜辺のマーケットでは半裸の商人たちが、「
これがpi、これがpu、これがmi、倍のmu」と計算していたのだろうと私は思う。それ
は、どういう算術なのだろうか。倍数を原理とした商用計算はどのように可能だろう
か。
 もう一点の疑問は、こうした計算がポリネシアのどこかに残っているかだ。これが
わからない。"Numbers from 1 to 10 in Over 4500 Languages"(参考)をときたま眺
めるのだが、類似の数詞構造をもった言語はない。あるいは、だからこそ、日本語の
数詞は日本語というより極めてマーケット性の強い言語アバカスだとしたい気持ちに
なる。
 古代マーケットでもそうだが、マーケットは基本的にバランス(等価交換や収支)
によって成り立っているので、倍数原理がこのバランスのために利用されていたと思
われるのだが、わからない。
 身体語については、めが眼と芽、はなが鼻と花、といった作物との関連がありそう
だが、こちらはさらにわからない。ついでにどさくさで言うが、稲作というのは日本
の古代では交易のための商品として発生したものだろうと思う。稲作をしてコミュニ
ティに富を蓄え国家ができるというモデルは抜本的な間違いだと思うが、私が死ぬま
でにそうした見通しいいの古代理論はできるのだろうか。無理かな。

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