|
和服的有关资料(中日对照) |
热 ★★★★ |
|
和服的有关资料(中日对照) |
|
作者:未知 文章来源:互联网 点击数: 更新时间:2007-04-25 |
|
|
前言
「和服」,是日本人的传统民族服装,也是日本人最值得向世界夸耀的文化资产.和服的穿著巧技,乃是随著时代的风俗背景,琢磨考验,蕴育而生.高雅而优美的图案,源自於日本民族对於山水的欣赏及对於风土的眷恋,乃至於对人本精神与情境的细腻感受.
和服不仅融合了优雅气度与深层内敛之本质,更反应了穿著之人的「心」与「动」.每一套优美的和服,都经精心裁制,讲究穿著时的每一个细节及步骤.因此,不论是坐姿或站姿,都需经由完整的学习训练,而成为内外在兼具的完美礼仪.和服又有另外一个名称叫「赏花幕」,因为和服的图案与色彩,反映了大自然的具体意象,当人们穿著和服走动时,会因为晃动而使得和服如同一块动态的画布
和服的制作方式,须先决定布料所需的宽度,再以一标准化的单元,决定各部份的长度,男性与女性的和服宽度是不一样的.做好布料的裁制分配之後,以直线裁成一块块直条的布,再一片一片加以组合,制作过程中不会有多馀的布料.
孩童的和服,则是在丈量布料时,便事先预留一部份缝份,以便随著成长过程,适时地加长放宽,而修正成合适的尺寸.和服之所以采取这种设计与制作方式,其精神也符合日本民族「不浪费,代代相传,多人能穿」的传统风俗.
过去有人认为,腰间缠著宽宽的,厚厚的一层带子,是对身体进行束缚,是不科学,不卫生的,但是,近年的研究结果表明,和服的腰带不仅能平均地压迫身体,使人体的血压下降,可以将胃往上托,更是一种科学和卫生的方做法.
一, 和服的传统
和服是以中国唐代的服装为基础,亦有其悠久的发展史的服装.
西元8世纪,中国唐代的服装传入日本,对日本的和服带来很大的影响.而今日日本人所穿的和服,大约是在600年前基本定型的.
时代和服
1: 和服女装最早被称为"贯头衣″,男装被称为"横幅″.所谓"贯头衣″就是在布上挖一个洞,从头上套下再用带子系住两腋下的布,再配上类似裙子的下装,原始而实用.所谓"横幅″就是将未经裁减的布围在身上,如同和尚的袈裟般露出右肩.
2 :绳纹时代和弥生时代
日本出现了两种的服装样式.一种是套肩式圆领衫,类似今天的圆领针织套衫;另一种是对襟式,门襟采右衽,领尖至腰间,袖子为筒形袖,长度在膝盖以上.
与上衣配套的还有领巾,于须比,袴.领巾一般作为装饰搭挂在两肩,形式不限,通常依个人喜好而定.须比是一种比领巾大且长的一种带状织物,由肩垂至腰间〈古代日本妃女忌讳被男子看到,所以用於须比蒙面〉.袴原指穿在下身遮掩於上衣内的布,此只由腿部连接的类似於裤子的下装.
3:日本的奈良时代
正值中国的盛唐时代,日本派出大批的学者,僧侣到中国学习.这些遣唐使把唐代的文化,艺术,服饰,律令制度都带回了日本.故此时期的日本服装受中国影响深远,但服装色彩还是较简单.
4:平安时代
国风盛行,和服渐渐摆脱外来的影响,发展出独特的奢华与精致的特色,服装色彩开始多样化,衣袖也向宽大发展.女性的服装主要是"十二单衣″和"唐衣″,男性的服装主要是"束带″,"直衣″和"狩衣″.
贵族社会的服装是以绢为主,平民则是以麻为主,不可使用绢.
5:鎌仓时代
政府过度腐化,穷奢极欲,公卿统治衰退.此时期精干,简易的武家文化出现,服装上也反映出此时期的特徵.当时中国正值元朝,元朝大军连续数次侵犯日本,日本人为了便於战争,服装再度恢复朴素,宽袖又变回窄袖.
6:室町时代
此期开始在衣服上印上家纹,便服设计开始礼服化.直垂和侍乌帽子是时髦的男装,女装则是朝简单化发展.
7:江戸时代
江户时代是日本服装史上最繁盛的时期,男装,女装虽有变化,〈如女装小袖形状变的接近现代,而男装流行羽织,带结开始流行.〉但是,基本格局已定,到了明治时代,现代意义上的和服就定型了,此後一直没有太大的变化.
今天看到的和服,大都是延续了江户时代的服装特色.
8:明治,大正,昭和时代
现代日本的服饰虽为和洋并存,但在明治时期,女性仍著和服.男性方面,虽有一部份穿著洋服,但视和服为正式服装.
进入大正时期,男子流行穿著西装,女性亦开始穿著西式服装.而在和服方面,女性流行华丽的羽织.
大正以後,因为战争,使得和服演进中断,战後才又继续发展.
二, 和服分类
1: 浴衣
浴衣也是和服的一种,洗完澡後或夏天较热季节时,.所穿的简易和服,材质大多为绵织品.明治时代 (十九世纪後半)之後,引进洋服,西服所以穿和服的人就相对变少了.近年来,在夏天的庙会,烟火大会中等热闹场所,浴衣就成了年轻女性夏季流行的新宠儿!
2: 振袖
振袖为未婚女性的礼装,依袖子的长短分为大振袖,中振袖,小振袖.因为未婚女性专用衣装,婚後须将袖子剪短.
大振袖:花嫁新娘装...等.中振袖:参加结婚喜宴,成人式,毕业式,谢师宴,茶会...等场合.小振袖:正式,非正式等各种场合都可穿.
3: 留袖
留袖为已婚女性的正式礼装,多半穿著在结婚喜宴等正式场合.颜色为黑色,裙襬及袖口织有图案,再搭配镶有金,银线的腰带留袖又分黑留袖和色留袖.
4: 访问著
访问著有称"色留袖" ( 色彩留袖 ),因下襬多半是较花俏的图案,故并无婚之规定,穿著场合较广.
5: 花嫁衣裳
花嫁新娘装是女性一生中最美的时候.日本人结婚形态可分为两种:传统的神前结婚,西洋教堂结婚;传统在神前结婚,花嫁装是不可缺的.一般常见花嫁装有三种:白无垢,打挂,振袖.头上配戴及衣裳种类,会因家族规定及个人风格有所不同.
6: 普段著
种类诸多,依衣料的材质,织法,花纹,颜色...等,其称呼不同.所谓普段著为日常衣裳,从居家休闲,逛街,购物,茶会,同学会...等场合,均可穿著.
7: 毕业服
专科以上的毕业典礼或学位受与仪式中,所穿著的衣裳.鞋子可分和服夹脚鞋和马靴两种.
三, 和服款式
和服款式十分之多,婚,宴,丧,礼,春,夏,秋,冬皆不同.按和服花纹和质地也有贵贱之分.
今天,和服不仅是人们婚,宴,丧,礼时喜爱的服装,和服及其饰物还成了布置的装饰品.例如新娘的结婚礼服,以同样的图案设计不同颜色来强调它的变化,一般正式新娘礼服要穿三层,此三层完全相同图案的设计,惟以不同颜色,分别在不同场合穿著,如在夫家宴客穿著的颜色和在娘家宴客时的穿著,以不同的颜色为之.也有以代表长寿的松,鹤等吉祥图案设计的结婚礼服.少女在正式场合的穿著,强调及地的长袖(振袖),其意义类似我国早期的三寸金莲,意味著出身名门,不是劳动阶级;而一般结过婚妇女的衣袖则是短的,已表示已婚的身份.
春季:樱花盛开或以春天的西洋花图案为主题的设计,以粉色系较多.
夏季:以清凉色系为考量,图案常以浪花,水中嬉戏的鱼儿,甚至水边水草,花鸟为主题.
秋季:以秋天的菊花为主题,添上一些萧瑟的秋意,暗色系较多.
冬季:以冬天的北国雪景意境为考量.
各国都有属於自己的代表服饰,好比中国唐代的胡汉相融,清代的旗袍,荷兰的木鞋等等…也都有他各自的起源与历史.而大多影响服饰发展的是地形,气候,即独有的历史文化.
这些传统的文化同时带动出新的时尚潮流.(资料搜集by一台湾中学生)
[NextPage]
和服(わふく)とは、日本における民族服。狭義の着物(きもの)。男子の基本はツーピース型、女子はワンピース型である。
和服は着付けが大変で、高価であり、また現代の日本人の生活様式からすると必ずしも実用的とはいえない。このため、七五三や成人式のような人生の節目節目で、また日本舞踊などの稽古事でのみ余喘を保っている…このように認識されていたが、昨今は事情が変わってきたようである。輸入製品等により安価で手に入るようになったことから、花火大会での浴衣のように和服がファッションとして再注目されてきており、古着等の安価な和服を専門に扱う呉服店も出現している。 また、「呉服」と呼ばれ由縁は、中国?三国時代の呉の国から日本に伝わった織り方によって作った織物とされる。
歴史
縄文時代?弥生時代
この時代はワンピース形式である。縄文時代の貝塚から貫頭衣を着た埴輪が出土している。魏志倭人伝には男子は横布を袈裟(けさ)のようにした上で頭に布を巻いた、裸に近い格好であり、女子は布の真中に穴をあけ、腰部分を紐で結んだ貫頭衣を着ていた、とある。邪馬台国女王卑弥呼についても「白い貫頭衣を着ていた」と触れられている。庶民は麻、身分の高い人は絹を着ていた。
古墳時代
大陸の影響により、ツーピーススタイルになった。この時代の埴輪では上着としての貫頭衣と、腰巻きに巻く裳、もしくはズボンを太くしたような袴が使われていた。このころの貫頭衣は着易いように胸前が割れてあわせが作られ、脇下を縫うことで袖ができた。上着が詰襟型の「あげくび」と胸前であわせる「たれくび」とに分かれたのはこの頃である。
奈良時代
聖徳太子が冠位十二階により位階で冠の色を分け、大宝律令の衣服令により朝廷で着る服が定義され、礼服、朝服、制服が定められた。文官の礼服はわきの下を縫った縫腋の袍を、武官は腋の下を縫わない闕腋の袍を着るようにとされた。武官は文官と違い、活動し易くするためである。
この時代の服飾は、小野妹子などに代表される遣隋使により中国の文化が輸入されたこともあって隋風のものであった。そのため、この時代まであわせは男女とも左前であったが、719年からは「初令天下百姓右襟」により、右前にすることと決まった。またこの時代に、下着としての小袖が唐より伝わっている。
平安時代
菅原道真により遣唐使が廃されると、国風文化が盛んになった。儀式行事が定着したことで、装いも形式的になった。それは衣服の殆どがゆとりを持て余しがちになり、なかんずく武官の衣装が実用性から遠ざかっていったことからも伺える。この頃の男子衣装には、公式の場で使われる束帯(そくたい)、少し軽くした衣冠、私的な場で使われる直衣(のうし)、平民が着ていた水干(すいかん)、狩衣(かりぎぬ)などがあった。やがて狩衣は貴族の生活服になり、武士も好んで着た。武家の台頭により公家は政治の世界から離れ、服飾も公家のものから武士のものへと変わった(この時代の女子衣服は十二単を参照)。
鎌倉?室町時代
政権を武家が担うことにより、彼らが着ていた水干から直垂(ひたたれ)ができ、進んで室町時代に入ると直垂は武家の第一正装となった。新しく大紋(だいもん)、素襖(すおう)が出現したのもこの時期である。江戸時代になると一層簡略化され、肩衣(かたぎぬ)と袴(はかま)とを組み合わせた裃(かみしも)が用いられた。
女子服飾も簡易化の一途をたどった。裳は徐々に短くなり袴へと転化、やがて無くなった(女子服飾のワンピース化)。この後は小袖の上に腰巻き、湯巻きをまとう形になった。小袖の上に丈の長い小袖を引っ掛けて着る打掛ができ、下着として着ていた小袖が表面へと出てくるようになった。
江戸時代
町人文化として小袖が大流行した。歌舞伎や芝居の錦絵や浮世絵で役者の服飾が紹介されると、町人の装いは更に絢爛豪華なものとなった。これに対して幕府は、儒教的価値観から倹約令にて度々規制しようとしたが、彼らの服飾への情熱は収まらず、茶の湯の影響もあって、見た目は地味だが実は金のかかっているものを好むようになった。
女子服飾は長い袂(たもと)の流行から振袖ができた。帯結びや組みひもが発達し、帯を後ろで結ぶようになった。
鎖国により、外国から輸入されていた絹糸が国産化された。
明治?大正時代
身分により厳しく定められていた衣類の制限が解かれた。染色技術の発達により、いままでにないモダンな柄が好まれるようになった。西洋からの服飾の輸入がなされ、間もなく日本国内でも洋服がつくられるようになった。これにより却って、今まで着ていた服が「和服」として認識されるようになった。洋服を着用しだした初期の頃は、上流階級でも洋服は貸衣装屋でレンタルする時代であった。明治時代には洋服は主に男性の外出着や礼服であり、日常はほとんど和服が使われた。男性は軍隊では軍服を着せられ、また陸軍の軍服を規範につくられた詰め襟の学生服が男子学生の制服として採用された。
女性は華族階級や教員の一部を除きもっぱら和服であったが、大正時代後期から、女学生の制服にそれまでの行灯袴に代えてセーラー服が採用される例が増える。関西で「あっぱっぱ」と呼ばれた簡単に縫えるワンピース型の洋服が考案され、女性の間に瞬く間に広まった。
昭和
戦時中男性には国民服、女性にはもんぺを着用することが強いられ、和服の着用はほとんど姿を消した。戦後もんぺを脱いだ女性たちは手製の洋服を着るようになり、和服は日常着として使われることが少なくなった。1960年代までは自宅での日常着として和服を着る男性が多くいたが(1970年代までの漫画での描写からも伺える)、次第に姿を消していった。現在では殆ど見られなくなっている。
種類
筒袖
振袖
留袖
色留袖
袴(はかま)
訪問着
付け下げ
小紋
色無地
紬(つむぎ)
ウール着物
浴衣(ゆかた)
羽織(はおり)
束帯(そくたい)
十二単(じゅうにひとえ)
甚平 甚平(じんべえ)
作務衣(さむえ)
丹前
付属品
ショール
コート
長じゅばん
半衿
帯揚げ
帯締め
根付
髪飾り
櫛
羽織ひも
扇子
ハンドバッグ
懐紙
雪下駄
下駄
草履
足袋
呉服
現在では、『呉服』を「和服」の同義語として扱うことが多いが、元々は絹製品を呉服、綿製品は太物(ふともの)と称し、扱う店も別であった。
|