滝と孫
著者 柴咲 らんど
那智山青岸渡寺に立つ老いた谷崎を、落差133メートルを誇る日本一と称される飛瀑、熊野那智の滝が、しっかとみていた。
谷崎は孫を連れ、ここに一つ持ち合わせる生命が、この世の見えざるものに導かれて、その豊かな大地と愛と夢を育む手の中で、生きながらえてきたことを、誰にとも無く、感謝した。
谷崎の、この連れ添う孫のような年少時代は、朝鮮戦争の特需ブームから第一次高度成長期に突入した爆発的な好景気を迎える「神武景気」の中で、自由民主党が結成され、「55年体制」が確立されたみんなが生活に少しではあるが潤いが見えてきた時代であった。
街中では、島倉千恵子の映画主題歌であった「この世の花」のメロディーが流れ、ヘップバーンカットやポニーテールの髪形をした若い女の子たちが、サブリナパンツを穿いて、商店街を歩き、商店街のメインであった映画館では、本多猪四郎監督の「ゴジラ」、黒澤明監督で三船敏郎、志村喬、津島恵子出演の「七人の侍」、監督が木下恵介で出演者が有田紀子、田中晋二、笠智衆の「野菊の如き君なりき」、高峰秀子、森雅之、岡田茉莉子が出演していた「浮雲」が連日放映され、洋画では、イヴ・モンタン、シャルル・ヴァネル主演の「恐怖の報酬」、マーロン・ブランド出演の「波止場」、オードリー・ヘプバーン、グレゴリー・ペック出演の「ローマの休日」、ジェームズディーン、ジュリーハリス出演の「エデンの東」を観るために、若者たちが我先にと、映画館の入場券売場の前に行列をつくった時代でもある。
そして、そんな映画を観ては、みんなが将来に夢と希望を持った。
いつしか、谷崎の住む下町にもテレビが普及した。 「サザエさん」、「私の秘密」、「日真名氏飛び出す」、柳家金語郎、水の江滝子、フランキー堺、長門裕之などのとぼけた仕草が人気だった「ジェスチャー」を、近所の大人も子供も、みんな集り、肩を寄せ合って観た。その場に集う者たちは、この第一次高度成長時代に無縁の人たちだったかも知れないが、みんながこの時代をまっすぐに捉え、これからの人生に何の不安も持っていないかのように笑顔を絶やさず、「プロレス」中継が始まると、力道山の空手チョップに一喜一憂し、何かをそこに託した。 そして、谷崎も……
「おじいちゃん、おしっこ!」 谷崎は、ふと現実に戻った。
谷崎は自分の穿いていたズボンの股座を覗き、そして、孫の顔をみるなり、何を思ったのか、不意におばあさんとの「二人だけの会話」が口に出た。 「ワシか?」 孫は、その意味も判らず、谷崎に言った。 「僕でしょ~」
谷崎は良い年を取らしてもらったことを、ふたたび滝に感謝しながら、すっと立ち上がり、那知の滝に手を合わせて、一礼した。それをみて、孫もマネをした。
谷崎はこの孫が、私のおじいさんが私をここに連れて来て下さったように、この子も孫を連れ、この壮大な滝の前に、また、私と来たことを思いだし、来てくれることを、心の中で密かに滝にお願いした。
そして、谷崎がかっておじいさんを支えたように、那智山青岸渡寺を孫に杖となってもらいながら、ゆっくりと、降りた。その孫に手を引かれる谷崎の後姿は、一片の陰りも無く、幸せが満ち溢れていた。
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