作者:市川保子 助詞1 格助詞 今まで動詞について述べてきました。今回は動詞と密接な関係にある助詞(動詞と関連し、文の骨になる助詞)について考えます。 (1) 台所で子どもがケーキを食べた。 (1)ように、日本語の文は線上に並びます。しかし、実際はそれぞれの名詞句(「名詞+格助詞」(「台所で」「子どもが」などの形を名詞句と呼びます)と動詞は次のような関係にあります。 a. 台所で b. 子どもが } 食べる c. ケーキを aはケーキを食べた場所を、bはだれが食べたかという主語を、cは何を食べたかという目的語を表し、a,b,cそれぞれが対等に動詞「食べる」と関係しています。したがって、必要に応じて、a,b,cのいずれかを省略することができます。(例 台所でケーキを食べた。子どもがケーキを食べた。など) そして、ここに出てきた「で」「が」「を」などの動詞との関係を表す助詞を格助詞と呼びます。日本語には9つ(が、を、に、で、へ、と、から、まで、より)の格助詞があります。(詳しくは国立国語研究所『日本語教育のための文法用語』P30参照) 次に格助詞について問題になっている点のいくつかを紹介します。 格助詞「が」 「雪が降る」「雪は降る」のように、「が」はいつも「は」と比べられます。外国人学習者だけでなく、教師のほうも両者の違いをどう説明すればよいのか戸惑うことが多いと思います。「が」については「は」との関係で、次回助詞2で説明します。 格助詞「を」 目的(ケーキを食べる)、通過点(道を通る)、起点・出発点(部屋を出る)を表します。 「起点」について面白いことがあります。これは恩師寺村秀夫先生から教わったものです。 「部屋を出る」「トイレを出る」のように、「出る」は起点・出発点を表すために格助詞「を」ととります。では、次の場合はどうでしょうか。 (2) 煙がえんとつを出る。 おかしいですね。「煙がえんとつから出る」が普通ですね。 「部屋を出る」「トイレを出る」は「部屋から出る」「トイレから出る」のように、「を」でも「から」でも使えますが、「えんとつ」は「えんとつを出る」とは言いません。 一方、卒業するの意味で「大学を出る」という言い方がありますが、これは、「大学から出る」とは言いません。 このように、「を」が起点・出発点を表すと言っても、場合によっては使えないことがあるので注意しましょう。 一般的には、具体的な事柄・動作(煙が出る、部屋を出るのように)ほど、「から」が使われ、抽象的な事柄(大学を出る、うちを出る(=家出))ほど「から」は使われにくいと言えるようです。 格助詞「に」と「で」 「に」と「で」は学習者の混乱しやすい助詞です。 「に」は存在の場所(「事務所にパソコンがある」)、帰着点(「駅に着く」「いすに座る」)、動作の対象(「恋人にあげる」)などを、「で」は手段(「フォークで食べる」)、範囲(「京都で一番古い寺」)、動作の行われる場所(「台所で食べる」)などを表します。 学習者が混乱しやすいのは、場所に関して「に」を使うか、「で」を使うかというところです。 よく挙げられる例は、タクシーに?っていて、門の前で降りたいとき「に」を使うか「で」を使うかというものです。 (3) 門の前に止めてください。 (4) 門の前で止めてください。 皆さんはどちらを使いますか。 「門の前に」は「に」の用法である帰着点(タクシーが止まる所)に焦点が、「門の前で」は「で」の用法である動作(タクシーが動いていること)に焦点が合ったときに使われるようです。 (「ベッドに寝る」「ベッドで寝る」、「九州に生まれた」「九州で生まれた」の違いも同じような考え方で区別できます。) 日本人は「京都に・・・」と聞くと、何かが「ある」か「いる」と予想し、「京都で・・・」と聞くと、何か動きがあると想像します。学習者にはこの予測をする力がなかなか身に付かないのですが、少しでもその方向で指導ができたら良いと思います。 格助詞「へ」「に」 方向を表す「へ」と帰着点を表す「に」は、特に最近では、両者を入れ替えて使うことが多くなっています。 「東京へ行く」「東京に行く」、「右に曲がる」「右へ曲がる」、「いすに座る」「いすへ座る」などです。私などは個人的には「いすへ座る」では落ち着かない気がします。 では、次のような言い方はどうでしょうか。いずれも動作の対象に対して「へ」「に」を使っています。 (5) 友だちにプレゼントをあげる。 友だちへプレゼントをあげる。 (6) 彼にメールを打つ。 彼へメールを打つ。 私は「に」を使いたいほうですが、皆さんはいかがですか。 「友だちへ」「彼へ」と方向性を強調すると、「へ」でも可能になるのかもしれません。 次のような場合は「へ」しか使えません。 (7) ○友だちへのプレゼント ×友だちにのプレゼント (8) ○彼への手紙 ×彼にの手紙 格助詞「まで」と取り立て助詞「まで」 「毎日9時から5時まで働く」の「(5時)まで」は格助詞として物事の限界・限度を表しています。一方、「ゆうべは夜11時まで働いた」は単なる時間の限度として「11時まで」ととることもできますが、「そんなに遅くまで」という話し手の気持ち(ムード・モダリティ)が入っているとも考えられます。 昔一世を風靡したバーブ佐竹の「骨まで愛して」は、単に物理的に骨を愛してというのではなく、「骨を愛するぐらいすべてを」という気持ち(ムード・モダリティ)を表しています。 格助詞の「まで」はそのような気持ちは含まれませんが、どこまでが格助詞「まで」で、どこからがムード・モダリティ性の強い助詞(取り立て助詞と呼びます)「まで」かは、文脈、状況から判断しなければならない場合が多いです。 今回は格助詞のいくつかのポイントのみをお話しました。次回は、取り立て助詞を中心に取り上げる予定です。 |