作者:市川保子 ●受身表現(受動態) 「ホセがカルメンを殺す」のような能動文と、「カルメンがホセに殺される」のような受身文はどう違うのでしょうか。 私達が物事について述べるとき、行為者の側から「誰が何をした」と述べる場合と、視点を行為を受けたほうに移し、被行為者(被害者)の側から述べる場合があります。 受身表現は後者の、被行為者(被害者)の側に視点を置いて述べる文法形式です。 日本語の受身(受動態)は大きく、直接受身と間接受身に分けられます。直接受身というのは、「ホセがカルメンを殺す」から「カルメンがホセに殺される」が表現できるように、主語(カルメン)が誰か(ホセ)によって直接的な動作・行為を受ける受身のことを言います。 一方、間接受身は「子供が私のパソコンをこわす」から「私は子供にパソコンをこわされる」が表現できるように、主語(私)が誰か(子供)によって、直接的な動作・行為を受けたのではないが、パソコンをこわされることによって、間接的に何らかの影響(多くの場合被害)を受けることを表す受身です。 ●直接受身 直接受身では、用いられる動詞は他動詞で、(1)(2)のように、動作を行う人・ものは「に」で表されます。 (1)兄が弟を殴った。 ↓ 弟が兄に殴られた。 (2)夫は彼女を深く愛していた。 ↓ 彼女は夫に深く愛されていた。 行う動作が「書く・作る・建てる・発明する・設計する」などのように、何かを創造することを表す動詞では、多くの場合次のように「によって」が用いられます。 (3)有名な建築家がこのビルを建てた。 ↓ このビルは有名な建築家によって建てられた。 また、(4)のように原料などは「から」が用いられる。 (4)ワインはぶどうから作られる。 また、特に動作を行う人・ものを表す必要がない場合(行為者のない受身文)は、「~に/によって」が省略されます。 (5)輸入品には高い関税がかけられている。 (6)この日本家屋は100年前に建てられたものだ。 (7)彼の表情から疲労の色が感じられた。 ●間接受身 間接受身というのは英語などにはない受身で、主語が、ある事態・事件で迷惑をこうむったという含みを持ちます。そのため迷惑受身とも呼ばれることが多いです。 用いられる動詞は他動詞と自動詞の両方で、迷惑をこうむるもの(主語)は話し手であることが多いです。文の形としては、(5)(6)のように、「(主語)が/は(誰か)に(主語の所有物など)を~(さ)れる」という形をとります。 (5)子供が私のカメラをこわした。 ↓ 私は子供にカメラをこわされた。 (6)電車の中で誰かが私の足を踏んだ。 ↓ 私は電車の中で足を踏まれた。 (5)(6)では動詞が「こわす」「踏む」のように他動詞が用いられていますが、(7)のように自動詞で受身表現がなされる場合もあります。 (7)私の子供が一晩中泣いた。 ↓ 私は一晩中子供に泣かれて、困った。 (7)のような間接受身は日本語独特だと思われますが、特に最近は実際にはあまり使われていないという報告もあります。 外国人学習者には、間接受身の概念が理解しにくいようです。学習者だけではなく、日本人ネイティブである私自身も日本語教師1年生のとき、間接受身というものがよくわかっていないようでした。次の(8)を(8)' のように訳して、外国人学習者が笑っている意味がよくわからなかったという経験があります。 (8) 私は弟にケーキを食べられた。 (8)' I was eaten cakes by my younger brother. これでは「私」が「弟」に食べられてしまうことになりますね。 また、外国人学習者は、迷惑を受ける人を主題として文頭に出すということがなかなかわからず、(9)(10)のような文を作ってしまいがちです。 (9) 私のカメラは弟にこわされた。 (10) 私の靴が女の人の靴に踏まれました。 正解はそれぞれ、「 私は弟にカメラをこわされた。」「私は女の人に靴を踏まれました。」となります。 (7)で紹介した自動詞の受身を学習者に教える必要があるのかないのかについては、議論のあるところです。日本人でも「一晩中子供が泣いて、困った。」と言うことが多いかもしれません。 次の(11)(12)でも「販売員が来て困った」「雨が降って、ずぶ濡れになった」と言うことが多いと思われます。 (11) きのうは、しつこい訪問販売員に来られて困った。 (12) 雨に降られて、ずぶ濡れになってしまった。 将来、自動詞の受身を取り上げない教科書も出てきてくるかもしれません。仮に授業で取り上げる必要があっても、理解することに重点を置いて指導するのもひとつの考え方だと思われます。 最後に受身形の活用を示しておきます。
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